ベンセ湿原112604002-1
ベンセ湿原にニッコウキスゲが咲き乱れます。ベンセ湿原のニッコウキスゲは一面黄色の絨毯を敷き詰めたような大群落。「日本の自然100選」にも選ばれた、見事な景観です。
野鳥も多く、バードウォッチングにも最適です
◆ニッコウキスゲ:例年6月中旬頃
◆ノハナショウブ:例年7月上旬ころ
弘前公園散歩 11260305-1
弘前城(青森県弘前市)は、江戸時代から残る「現存天守」が東北で唯一存在し、日本全国でも12カ所しかない貴重な城です。さらに、天守だけでなく、3棟の櫓(やぐら)や5棟の城門など当時の建物が多く残っており、桜の名所としても非常に有名です。
東北唯一の現存天守: 江戸時代以前に建てられた天守がそのまま残る、貴重な「現存12天守」の一つ。
完全な城の姿: 天守だけでなく、櫓や城門、土塁や濠(ほり)などがほぼ当時の姿のまま残っている。
石垣修理のための「天守クレーン移動(曳屋)」: 2015年に石垣修理のため、天守を元の位置から約70メートル内側に動かしたことで全国的な話題になった。
日本屈指の桜の名所: 約50種類・2600本の桜があり、春の「弘前さくらまつり」には約200万人が訪れる。
花筏(はないかだ): 散った桜の花びらが濠を埋め尽くし、水面がピンク色に染まる絶景が見られる。
三井アウトレットと世界遺産中尊寺金色堂
中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって開かれました。その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営が行われました。
清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもありました。
清衡公は長治2年(1105)より中尊寺の造立に着手します。まず東北地方の中心にあたる関山に一基の塔を建て、境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立します。この伽藍(がらん)建立は『法華経』の中に説かれる有名な一場面を具体的に表現したものでした。
清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。清衡公は『中尊寺建立供養願文』の中で、この寺は「諸仏摩頂の場」であると述べています。この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに頭を撫でていただくことができる。諸仏の功徳を直に受けることができる、という意味です。
法華経の教えに浄土教や密教を加え大成された天台宗の教えに基づく伽藍が境内に建ち並び、その規模は鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、寺塔が四十、禅坊(僧の宿舎)が三百におよんだといいます。
二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立しました。三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもありました。
平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」でした。しかし、平氏政権を倒した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびて間もなく、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みます。その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡したのです。
鎌倉時代以降、大きな庇護者をうしなった中尊寺は次第に衰退し、建武4年(1337)の火災で惜しいことに多くの堂塔、宝物を焼失しました。しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、建築、絵画、書跡、工芸、彫刻、考古、民俗の各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されています。
平成23年(2011)に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登載されました。
中尊寺HPより引用
三井アウトレットパーク
小岩井農場







